危機一‘発’(6):戦時下のテヘラン異聞

 1983年9月、イランとイラクが戦争状態であったイランの首都テヘランに出張する羽目になりました。通常の商売でこのような時期に出張することはないのですが、イランも戦時下でもあり、公社・公団が前面に出て入札を主体に、商売を進めるしかなかったためです。

 社内の特別許可を得て、ロンドン経由でテヘランに到着しましたが、戦時下の空港には航空機が見えません。後で聞くと、航空機はほとんどが“近隣”の隠れ空港に避難しており、到着後に乗客を降ろすと直ちに“近隣”に移動し、搭乗客が揃ったら“近隣”から移動してくるという空襲を警戒しての態勢でした。流石に出入国管理は厳しいものでした。
 空港から市内のホテルに直行しましたが、市街地に近づくと様子は一変していました。家やビルの入り口付近に新聞紙位の写真が飾られています。運転手の説明によると、ほとんどが「戦士の遺影」で、大きなビルの入り口では数十名の写真が飾られていました。亡くなった家族や社員を永く記憶に留めるための弔辞でした。やはり戦争は悲惨です。

 9月のテヘランは、暑くも無く、寒くも無く、快晴の日が続きました。商売の方は戦火の為、すべてが遅れと調整の連続で、予定が予定でなくなることが多く、結局入札は不調となり、戦時下のイランでの商売は中断せざるを得ませんでした。
 良かったのは、戦争中の為、外国人がほとんど訪問することが無いため、一流ホテルが驚くほど空いていて、好きなだけキャビアを味わうことができました。山盛りのキャビアに、玉ねぎの微塵切を振りかけ、レモン汁を振りかけるだけ。後は地元の闇ウォッカのがぶ飲みです。

 入札の継続が困難となったため、戦争状態のテヘランを早々に退去することにしました。帰国を急いだため、パキスタンのカラチに出て一泊し、翌日の東京行きとしました。空港の出国管理も厳しいものでしたが、搭乗客は数人しかいません。待合室で“近隣”からの搭乗便を待っていたら、2名の女性が待合室に入ってきました。
 搭乗機を待つほかないので、二人と少しだけ話をする時間がありました。ひとりは、イラン人女性でシンガポール在住。もうひとりは、何と大阪・堺の二十歳位の大阪弁丸出し姐さんでした。よくよく聞いてみたら、何と観光に来たそうです。
 観光に来たけど4日前にテヘランに到着したが、訪問希望が、悉くキャンセルされ、ホテルからの外出もできなかった由。ただいまイランは、戦争中ですよ・・折角イラン迄来たのに、ホテルに宿泊しただけと、大不満でした。戦争中もなにも私には関係なしで、戒律の厳しいイランに良く入国できたものです。事前に予約は取れていたのに、なんでアチコチ行けへんの?状態でした。危機管理もこうなると意味がなくなりそう。

 更に、カラチ行きは予定外だったので、今晩の(カラチでの)宿もなし、状態です。カラチからペシャワール辺りを回って大阪に帰りますわ、という状態でした。旅慣れているのか、無謀なのか、私の理解を超えていました。
 イヤハヤここまでの無謀さに驚いたけど、本人はまったく気にしていないようでした。カラチ到着後、迎えの車に乗せ、ホテルも確保したけど、翌朝チェックしたら、もうお出かけです・・・・。旅行の常識が変わり始めていました。

(浜崎慶隆)