危機一‘発’(4):マレーシア・サラワク

 一般に「危機一髪」という漢字が正しいとされますが、私の場合は、これっきりという意味で「危機一発」という用語を使用しています。それ以上に意味はないので、先ずはお知らせです。

 1980年頃さる商品を担いで、東南アジアの諸国を走り回っていました。敢えて商品名には触れないでおきます。商社の仕事ということで守備範囲は広く、多様な人々との関係が浮き彫りになり、時には多くの方にご迷惑をお掛けしてはと思い、具体的な商品名についてはコメントし難いことをご理解ください。
 それでもひどい時には、1ヶ月の間に香港‐シンガポール‐クアラルンプールを回って、翌月にはタイやベトナムに居座るという生活が続きました。一時は別件も絡んでハノイに3ヵ月も滞在ということもありました。時にはクウエートに30日間も資金回収に張り付きもしました。

 そんな中で、一度だけ普段と異なる一日を過ごしたので皆さんにご披露しましょう。1982年2月に何時ものように香港経由でクアラルンプールに到着したら、急用でサラワク島のサンダカンの客から呼び出しが掛かりました。政府系のお偉いさんでもあり、急遽訪問することにしました。ところが通常はクアラルンプールからサンダカンまでの直行便があるのに、当日はその便がないとのこと。そこで「なんでもいいから予約してくれ」と伝えると直ぐに予約が取れました。但し通常よりは少し時間がかかりそう、そして出発は翌朝の7時発でした。
 それでも搭乗してみて初めて気が付きました。クアラルンプール‐クチン‐ビンツル‐ミリ‐ラブワン‐コタキナバル‐サンダカンというほとんど各駅停車状態で、サンダカンに到着したのは同日の22時頃という状態でした。もう飛行機には乗りたくない気分でした。
 この長時間のフライト中に、パイロット・クルーは3回交代です。ごていねいに離陸するたびにスナックのサービス付きです。当日、途中区間の搭乗客は少数ながらいましたが、クアラルンプールからサンダカンに行く通しの乗客は私一人です。“非常に空いている”各駅停車便で、当時は「良かったら操縦席迄見学に来ないか」とか、ブルネイの港のレーダー画像を見ながら、今日はオイルタンカーが随分と入港してるなあなどと空からの見学を楽しみました。パイロットも、流石に飛行機を操縦してみないか、とは言いませんでした。

 ところで、ビンツルに近づくと大きな雲の塊に近づいたので、乱気流の恐れがあるとのことで自分の席に戻りました。徐々に降下して20m程の高さになった時に、突然エンジン音が唸りを上げ始め、急上昇を開始しました。地面のぶつかるのではと、ショック防止のため両ひざが跳ね上がりました。大きく迂回して再度着陸を試み、無事着陸しました。でも雲又は霧のため地上の景色は、ジャングルが僅かに見えるだけでした。着陸後キャプテンに「どうしたの」と聞いたら「滑走路が見えていなかった。正面の標識がズレていた」とのことでしたが、本当は「少し滑走路とズレて着陸しかけた」ようでした。人任せの安全管理は一番怖いものです。
 この飛行機は、小型エンジン2基の主翼が天井に付いている「フォッカー機」で、その当時でも「相当セコハンに近い」機種でした。良くもまあ飛んでくれたものでした。ビンツルでそのまま方向を間違えて着陸してくれたら「この文章」は執筆できませんでした。チョットした危機一発でした。 ビンツルからミリへ。ミリからラブワンへ。ラブワンからコタキナバルへ。コタキナバルからやっとサンダカンに到着しました。その夜は、一晩中体が揺れていました。

(浜崎慶隆)