危機一‘発’(2):ベイルート

 1980年頃の主な取引先はオマーン、ドバイ、バーレン、クウェート、サウジアラビア等々、いわゆる湾岸石油産出国がお得意さまでした。ヒョンなことから業界代表でイラクでの国際入札でチャンピオン商社となり、渋々ながらバグダッド出張することになりました。

 当時、イラクはサダム・フセイン統治下で、日本との関係はあまりよろしくない時期でした。困ったことに、日本ではイラクへの入国ビザがとれない。ビザの取得はカイロ、またはベイルートのみ可能でした。ビザ取得のコストや旅費を考えてもベイルートが容易で安い、ということで、ロンドン経由でベイルートに到着。社内で出張許可を得るときの条件は、ベイルートの治安状況を考えて、ホテルの部屋に滞在しているとき以外は「現地社員(レバノン人)が24時間フルアテンド」というものです。

 ベイルート空港に到着し、税関を出て、到着ロビーには乗客以外は誰もいませんでした。突然10歳位の子供が来て、小生の名前を書いた紙きれを指さしながら「お前か」と聞かれたようなので、「YES」といったら、手をひっぱりながら、空港出口に向かって指差しながら「パパ、パパ」と叫ぶだけで、そして私の腕をつかんで歩きはじめました。後で分かったことですが空港の敷地内は現地の人々は進入禁止。200m程歩いて(荷物を引きながら)空港のフェンスを越えなければなりません。

 日本語はおろか、英語も通じない子供はフェンスを指差して「パパ、パパ」というばかり。私も全てを人の善意にかけて、「あそこにパパがいるんだね」と日本語で聞くと、「YES, YES」。不安を胸に瓦礫の中の歩道をバッグを引きずって歩き、「パパ」と遭遇出来た次第です。「パパ」の名前はサイードでした。

 ベイルートは、一昔前には中東の真珠とも言われていましたが、当時のベイルートは戦争状態で、道路にはライフルやピストルで武装した兵士がかなりの緊張状態でウロウロしていました。車でホテルに行く途中で事務所に行ってみました。事務所は事実上閉鎖されており、妙に静まり返っていました。数百㍍離れたホリデーインホテルの建物は、銃撃戦の結果でしょう穴だらけで、見る影もありません。道路の瓦礫を回避しながら、やっとホテルにチェックイン。夜は危険なので外出禁止、サイードは翌日のスケジュールを決めて帰宅してしまいました。窓もないレストランでかなり粗末な夕食をひとりで済ませました。

 訳の分からないテレビを見てもしょうがない。ロンドンからのフライト疲れもあり、早々に寝ることにしました。深夜。突然ホテル前の道路で銃撃戦が開始されました。戦争ドラマでしか聞けなかった機関銃の連射音、火薬の炎で我が5階の部屋の天井はぼんやりと明るくなり、意味は分からないが、多分「このやろう」とか、「あそこを狙え」とか大声が聞こえてきます。慌ててベッドと壁の間に潜り込み、ブランケットを頭から被って息もできずに縮こまり状態。弾丸が天井にあたって跳ね返ってくる可能性があります。幸いにも一発の弾丸も部屋に飛び込んできませんでした。30分程経過したら戦闘は終了した模様です。ベッドと壁の間で一晩を過ごしました。自分でも緊張していることが自覚できました。眠気は、まったく感じない一夜でした。

 翌朝サイードが迎えに来てくれたので、夜中の銃撃戦について話したら、「よくあること」の一言で終わりでした。日常のことなのです。その日は一日をかけてイラク大使館でビザ申請。効率よく一日で全ての手続きが完了して、ビザを取得できました。午後のひと時を銀座のような繁華街を散策しました。歩行者も多く、派手な服装の女性も闊歩しています。でもそこは何と我がホテルの目の前で、昨夜銃撃戦のあったその場所でした。

 その翌日バグダッド行きフライトに搭乗すべくサイードの車で空港に行ったのですが、サイード曰く「昨夜イラク大使館が爆破された」という。夜間の爆破だったらしく、サイードいわく「誰もけがはしていないと思うよ」、というコメントだけでした。夜間のことだったので、ビザをくれたおばちゃんも無事だったと、自分で納得するしかありません。短期間だったけど、とても緊張したベイルート滞在でした。そして生きていることがとても貴重なことだと納得しました。

(浜崎慶隆)