危機一‘発’(1):戒厳令

 商社に勤務していたことで色々と貴重な体験をしました。今回は、海外で“これはヤバイ”と思った幾つかを紹介しましょう。まとめて「危機一発」と題しました。

 1986年4月29日サンチャゴ市。東京からニューヨーク経由で、晩秋のサンチャゴに到着。事務所から徒歩5分程のホテルガレリアにチェックインました。翌4月30日はメーデー前休日でしたが、前任者との引き継ぎもあり、早朝から事務所に出かけました。雨季の初めでドンヨリとした日々が続いていたようでした。

 29日夕方近くになり、事務所の周辺で何やらややこしそうな“騒音”が起き始めました。5階の事務所から通りを見下ろすと、最近日本ではあまり見ないようなデモ騒ぎでした。圧倒的に警官有利。背後にカラビネロ(カービン銃をもった警察軍兵士=警官)が控え、デモ隊をガス銃で蹴散らしていました。時折銃声が響き渡り、いったいなんでこんなところに駐在に来たんだと悔やんだけど、後の祭り。

 さて困ったホテルに戻れない。こんな時に外出するのは田舎者で、対策はただひとつで、事務所の倉庫からワインとつまみを持ち出して、通りの騒ぎが収まるのを待つだけでした。一時は事務所での宿泊も考えましたが、待つこと約4時間。いい加減ワインが回ってから(外も静かになったので)駐在員は運転手つきの車で裏道を通って帰宅。小生は歩いてホテルに向かいました。

 街の中心街はヨーロッパのような碁盤の目状態で、縦横まっすぐな道路が続いているのですが、近くの変電設備は破壊されたようで、街は真っ暗です。事務所前の比較的広い通りに出てホテルに向かったのですが、道路の数百㍍先から警察軍の車が強力なライトで道路全体を照らしており、一般人は道路の真ん中を(季節は、ほとんど冬です)コートから両手を出して歩行することだけが許されていました。まだスペイン語はよく分かりませんでしたが、説明は不要でした。コートに包まって移動した場合、銃撃される可能性は限りなく高いと理解できました。自然と冷や汗が背中を流れました。

 ホテルの入り口周辺は真っ暗で、分厚い鉄板で塞がれており、やっとこベルボーイを見付け、ホテルに入れてもらった次第でした。サンチャゴ到着後、二日目の夜でした。何てところに来てしまったのか。

 翌5月1日メーデー。休日。さすがに今日は騒ぎはなかろうと、ホテル周辺を散歩していました。10分程歩くと、有名なモネダ宮殿、旧財務省ビルです。たしか1973年にアジエンダ共産政権最後の日に、ピノチェット将軍が爆撃させた宮殿で、反政府勢力にとっては最大のターゲットである大統領官邸になっていました。

 そんなことはつゆ知らず。モネダ宮殿の近くを散歩していたら、突然サンチャゴ最大の目抜き通りアラメダの角からデモ隊が進出。大統領官邸側からは警察軍が飛び出して激突。ピストルの威嚇射撃、催涙ガス弾の発射等々、市街戦でした。自分の顔からユックリと血の気が下がり、間違いなく真っ蒼な顔をしていると自覚できました。ともかくも両手を広げて比較的安全そうな警察軍の集団に近づき難を逃れました。ホテルにたどり着き、駐在3日目を過ごしました。

 戒厳令という状態は、法律的な保護を一定条件のもとで(治安機関に対して)憲法を停止し、不審な動きをした場合、保護なしという条件を(治安機関に)認めることになります。戒厳令下のチリでは、治安機関が絶対的な権限を持ったため、数千人ともいわれる人々が「行方不明」となり、今もそのまま行方不明の状態が続いています。

 幸いなことに、二年後軍事政権は「平和裏」に民主制に移行。私も無事生きて帰国することができました。世界を見渡せば軍政から民政への移行期間が平和に行われたことは珍しく、悲惨な状況は皆さんご存知の通りです。

 危機管理の一例でしょうか。

(浜崎慶隆)