もうひとつの「モアイ像」

 一般に「モアイ像」といえば、チリの西方2,000Km南太平洋の孤島「イースター島」にある石像ですが、もうひとつ私が熱中した「モアイ像」があります。

 1990年頃と記憶しますが、仙台支店より宮城県志津川町役場(当時、現南三陸町)よりモアイ像を探しているのだが、どこかで入手できないかとの話が、チリ・サンチャゴに駐在中の小生に入ってきました。その動機はモアイ像を建立することで、半世紀前のチリ地震津波で大きな被害を受けた志津川町が被災者の鎮魂と町の繁栄を願うというものでした。

 モアイ像はチリにとっては門外不出の国宝です。さすがに金を出すから売ってくれとは言えませんでした。そこで関係者と相談結果、アンデス山脈から切り出した石でモアイ像を作ろうということになりました。サンチャゴの市内を走り回り、モアイ像を作ってくれる石工の探すことから準備を開始しました。1ヶ月ほどしてペドロという石工をチリの観光協会より紹介され、具体化に動き出しました。

南三陸町モアイ公園のモアイ像(2010年12月津波前)

 まず石の選定です。2ヶ月ほどかかってサンチャゴの南100Kmにあるランカグアという町から東方向、アンデスに向かって50Kmほどの岩場でモアイ像に丁度よい20㌧程の長方形の岩をペドロが見つけました。ただ、田舎道をおんぼろトラックで運ぶため岩の大きさを10㌧位にする必要があったため、真中でカット。2個に分割してサンチャゴまで搬送することが必要でした。

 搬送も大変でしたが、サンチャゴ郊外の作業場での像作りも大変でした。電動工具を利用して彫刻することも可能でしたが、万一石が割れては大変との判断で、石工が3人で毎日毎日石を削る作業が半年くらい続きました。真夏の直射日光に耐えながらコツン、コツンとハンマーで叩いて削る厳しい作業でした。

 正確な日付は失念しましたが、モアイ像は頭部と胴体に分かれて完成しました。頭部と胴体はステンレス棒でシッカリと繋がれ、頭がグラグラすることもありませんでした。完成のときのぺドロの顔が忘れられません。その後モアイ像は無事に志津川町に運ばれ、海沿いの公園に安置されました。きっと盛大な行事が行われたと思います。30年前の話です。 チリから帰国後何度かモアイ公園に出かけました。訪問した時は、特に行事もなかったので、公園の台座に鎮座ましましているだけの地味な風景でした。

 チリから帰国後何度かモアイ公園に出かけました。訪問した時は、特に行事もなかったので、公園の台座に鎮座ましましているだけの地味な風景でした。

 それが壊れちゃった。2011年5月の連休に、モアイ像がどうなったかを確認に行ってきました。山間部を抜けて、ユックリと街中を海岸に向けて車で移動したのですが、地震で破壊されたと思われる家屋は意外と少なく、津波が山に向かって駆け上がったところだけはハッキリと判別できました。道路だけは意外と片付いていましたが、周りはガレキの塊です。ガレキは山にならずに、数メートルの厚みで延々と海岸までつづいていました。以前来た時には案外とゴチャゴチャした町で、海も見えにくい町でしたが、水平線が何の苦もなく見えました。町(であったところ)に入ると強烈に喉がカラカラになってきました。同時に動悸がして、息苦しい気分でした。写真を撮って記録しようとする意欲は全くありませんでした。

南三陸町モアイ公園のモアイ像(2011年5月津波後)

 やっと海岸沿いのモアイ公園に到着しましたが、モアイ像の頭がない。辺りをウロウロと探し回った結果、30分程して、公衆トイレ横のガレキの中に転がっていました。元々モアイ像は頭部と胴体がステンレス棒で繋がれていました。でも胴体は台座にあったのですが、以下の写真のように頭部は50M程飛ばされて(流されて?)、破壊され大きな蒸気機関車や破材などのガレキの中に、所々引っかき傷を負いながら静かに横たわっていました。

 不思議と悲壮感はなく、ああ何でこんなことになっちゃたんだ、という冷めた感動のない思いでした。アンデスから切り出した岩は頑丈です。モアイ像はかすり傷を負った程度なので、きっと元の台座に安置することは可能でしょう。これは何としても実現したい。

南三陸町モアイ公園ガレキの中のモアイ像頭部(2011年5月)

 このモアイ像は以前グーグル地図で、その四角い台座を確認することができました。でも現在はその確認ができません。小生も商社の仕事をしたが、地図上に残る仕事はほとんどありません。植林をしても、地面上に線は引いてないので、場所の確認は不可能です。

 南三陸町では、当面災害復旧が最優先事項でもあり、モアイ公園復旧は目途が立っていません。でもこの復旧に向けて、是非協力してゆきたいと考えています。

 2012年3月にチリの大統領が来日。チリ政府が新しいモアイ像を提供してくれることになりました。結果として私自身は具体的な貢献はできませんでした。でもなぜかホッとしています。

(浜崎慶隆)